(イントロダクション)「立役の頭は、女形に比べて地味な印象の物もあるかもしれませんが、色々な為所(しどころ)があります。今回はその中でも特に袋付(ふくろつき)についての話です。
写真は本文中に出てくる「鞘当(さやあて)」の名古屋山三(さんざ)。袋付天鵞絨(ビロード)張り立髪の棒茶筅で、浅葱(あさぎ)の打紐が巻かれています。
派手な拵(こしらえ)で吉原を流していても、元は侍という性根(しょうね)を表す髪型です。」
【総務:鴨治】【写真:岩田アキラ】

歌舞伎床山芸談(二)-②立役の髷(まげ)の急所

そのころ、わたくしども若い者の修業の場所は小さい芝居でした。
小さい芝居といふのは師匠が歌舞伎座とか市村座とか明治座とかいふやうな一流の舞台のほかに請合つた芝居のことで、東京ならさしづめ演伎座・宮戸座・柳盛座・開盛座・三崎座などいふところでしたが、このうちわたくしが主にはたらいたのは宮戸座で、しかもはじめて床山になつて行つたのもここでした。
先代の訥子(とつし)さんとか源之助さんなど、ずゐぶん幹部のかたが出てをられた時分のことで、たしか大正五・六年の頃であつたと記憶します。

ところが、この小さい芝居といふのは御承知のごとく規模も小さく楽屋の人数も少ないところから、床山も立役と女形の区別をたてるといふわけにいかず一人で何でも手がけなければなりません。そのためにわたくしは本来三階の床山でありながら女形のあたまも扱ふやうになつたわけでして、これが後々のためにはかへつて幸ひなことでした。
といふのが、俳優でも一人前になるには、たとへ将来立役として立つにしても若い時分に一度は女形の修業をしなければ身ごなしに柔軟な色気といふものが具(そな)はらないとされたもので、事実みなそれを心がけたものといひますが、それは床山の仕事にも同じく言へることでして、幸ひにもわたくしはその機会に早くめぐまれ、その間に自然と得るところが少なくなかつたからです。

もつとも、立役の髷には基本的な型としてごぞんじの油付(あぶらつき)(侍などの役に用ひる髱(たぼ)のない髷(まげ))と袋付(ふくろつき)(町人などの役に用ひる髱のある髷)との二種類があり、一束(いっそく)にとるといふのは主として後者についていふのでして、その代表的なものとしては「袋付棒茶筅(ぼうちゃせん)」(髷の名)とか「綯(な)ひまぜ鬢(びん)の一束たばね」(髷の名)などといつて、たとへば「凧(たこ)」の為朝とか「鞘當(さやあて)」の名古屋・大森彦七などの役どころに用ひるものがいろいろあります。

けれども、そのいづれをとるにしても両鬢(りょうびん)と髱(たぼ)を三つにとつて一束にとつたごとく見せて結ひあげるといふ心持には変わりがないのでして、ここが実は立役(たちやく)の髷(まげ)の急所であり、女形のそれとはまつたく技法の異るところです。

つまり女形の鬘(かつら)の場合は、だいたい基本になる型は「島田」であるとか「銀杏返(いてふがへ)し」であるとかいふ風にきまつてゐるうへに、前髪・鬢(びん)・髱(たぼ)などの各部分が一つづつとつてあつて、元結がいくつも重なつたなりに結ひあげられてをります。したがつて俗に女形の髷は髪結さんでも結へるなどと申すくらゐで、むしろ仕上げの苦心のしどころはほかにあるといふべきであり、またこの節では一般に地鬘(ぢがつら)(婚礼などに使用する鬘のこと)の使用が多くなつたので少し手なれた女髪結さんなら結構立派に結ふことができるものです。けれども立役の鬘はなかなかさうはいきません。形だけはできても元結一本で仕上らないのです。

もつとも一束にとるといつても、鬘(かつら)の場合は実際より鬢(びん)が高く、もみあげが長くなつてをりますから、これをただ一束にとると鬢が垂れてくるやうになるものです。したがつてこれを三つにとつて最後に一束にとつたやうに仕上げるのが苦心のしどころで、それが生きた髷を結ふといふことにもなりませう。

しかし番(ばん)(三階の大部屋の数のもの)のあたまともなれば昔はすべて一束にとつて結へたものでした。役のあたまなどとちがつて総じて鬢が遠慮がちに低くもみあげが短かくなつてゐたからです。それが近ごろでは番の袋付であらうと何であらうと構はず鬢が高くなつてゐて、一束にとつて結へるやうなあたまは一枚もなくなりました。これはおたがひに自分の顔をよく見せようとの心持があらはになつて役柄による遠慮といふことが少しもなくなつた結果と思はれますが、それでは折角久しい伝統のうちに幾多の名匠たちによつて培はれてきた格調高い芸の品位といふものが失はれるわけでして、いかにも味気ないことと申さねばなりません。
第一、三階の方の役のものが芯をさしおいて誰もかれもそんなに立派に見えたのではもう芝居にはなりませぬし、かねて一本の元結、一筋の毛にも伝統の古格や約束を尊重しつつ役の性根(しょうね)や役どころをあらはすのに丹精をこめてきたわたくしどもとしてみれば、もはや苦心のしがひがないといふものです。そんなことがやがて顔のつくりや身ごなしなどにも及び、女形なら腰元であらうとなんであらうとむやみに生白粉を塗つて真白にすればいいといふことになれば、歌舞伎は何ともゆかしさのない甚だ色褪せたものとなるでありませう。これが時代といつてしまへばそれまでですが、いかにも惜しまれることではありますまいか。