花嫁の髪型に文金高島田があります。高島田は、島田髷(しまだまげ)が高くなったという意味ですが、文金という言葉はどこから出たものでしょうか。
江戸元文の頃 髷の根が高くなり、この髪型が流行るようになりました。
この頃金の値段が高騰しました。人々は髷の根が上がったのと、金の値が上がったのを、元文の文と金をもじって文金と言うようになりました。

「元文の頃江戸中に踊子(おどりこ)という女があった」と昔の本に記されています。素人の娘に三味線浄瑠璃を教え込み、お歴々のお慰みとしてお屋敷方や御留守居寄合茶屋等に出入りさせて、芸者のようにしていたそうです。その十代半ばの若い娘たちが踊子です。
その中に三人の美人の踊子がいました。
根の高くなった髷は、彼女たちの師匠である豊後節(ぶんごぶし)の太夫の好みでもあり、自分たちも太夫のまねをして、根を高くした髷を結うようになりました。
困ったことに笠を被れば、高く結った髷が壊れてしまいます。当時は、田植えなどで見る菅笠や加賀笠のような被る笠が主流でした。そこで彼女たちが目を付けたのが青傘です。青傘は京都の公家衆が用いていた柄(え)のある傘で、京都下がりの医者が、青い紙で日傘を張らせ使用していました。彼女たちはこの傘を用いて高く結った髪が乱れることなく江戸の町を歩く様になり、傘の流行と共に文金高島田も流行ったと言われています。
この傘は女性だけではなく、男性も伊達(だて)で差すようになり、助六の舞台に登場する蛇の目傘の元となりました。
【那須正利】【写真:岩田アキラ】