歌舞伎床山芸談第三回今回は「虎」が「生涯の修業をつむことになった」経緯についてです。「何の考へもなく」「『おれのところに一人よこせ』というふ申し入れがあり…引き取られて」…といった流れでたまたま堀越利三郎師の弟子になります。本人の意思と全く関係ないところで一生の仕事と師匠に出会う話です。

【総務:鴨治】

歌舞伎床山芸談(一)-③堀越名人

わたくしがこの道にたづさはるやうになつたのは、別に深い仔細があつてのことではございません。
明治四十五年の暮もだいぶんおしつまつたある日のこと、近くに住む小母がきて「虎、奉公にいかないか」といふことから、このときやうやく十一歳であつたわたくしは何の考へもなく、ただ親切な小母の言葉にしたがつて初めて奉公に出ることにしたわけですが、そのとき伴はれていつたのが馬道の淀與四郎さんといふ床山の師匠のいえであつたといふ、まことに偶然のきつかけによつたものであります。

しかし明治四十五年といへば、どなたもよくご存じのやうに、この年の七月には明治大帝がおかくれになり、すでに元号は大正と改まつてをりましたけれども、追つて九月には乃木大将の殉死の報が市民の心に強い衝撃をあたへたりして、わたくしども明治育ちのものにはいろいろと印象にのこることが多かつた年でした。

それだけにまた一面には、これまでの旧(ふる)い時代に帷(とばり)がおろされて新しい御時世を迎へたといふ別した感慨が誰の胸にもあつて、事実その後は演劇そのほか風俗のさまざまな面でもいはゆる大正時代といふ独特な時代調をかもしだしたのでありますが、はからずもこの年がわたくし自身にとつても人生の第一歩をふみだすといふ思ひ出の年となつたわけでして、なかなか忘れがたいのであります。

とはいへ、わたくしは淀さんの家にさう永く居ついてをつたわけではございません。御厄介になつたのはものの三ヶ月にも充たないくらゐの短い期間であつたと記憶します。といふのは、淀さんの家にはわたくしのほかに今一人先入の弟子がをつて、わたくしは万事この兄弟子にならつて下働きをしてをつたのですが、するとその年も暮れて翌る年の春も早々のこと、同業の堀越利三郎さんといふ方が見えて、
「淀、お前のところに二人も弟子はいらないだらう。おれのところへ一人よこせ」
といふ申入れがあり、それからまもなくわたしは三軒町の堀越家へ引取られて、ここで生涯の修業をつむことになつたからです。

この堀越といふのは、後になつて知つたのですけれども、先代の幸藏師匠が九代目市川團十郎の床山をつとめたかたで「相撲は岩永、髷(まげ)は幸床(こうどこ)」といふ文句が残つてゐるのでも知れるやうに、明治の初年ごろから中ごろにかけて働いた立役の床山の第一人者であり、名優のかげの人としてこの道の改良工夫にいろいろとつくすところのあつた名人でした。

いえ、八代目團十郎が大阪で腹を切つたのはたしか嘉永七年であつたと聞いてをります。このときまだ河原崎権十郎のもとにあつて大して名も聞えなかつた弟の九代目は、やがて急死の兄のあとをついで大阪へ呼ばれたとき、その舞台を金で断つてしまふつもりで、
「五万円よこさなければ、おれは行かない」
と謂わば難題をもちかけたことがありました。

すると案に相違して向うがぽんと五万円出してしまつたので、これが大変な評判になつて錦絵まで出たといふことですが、そのとき九代目が幸藏師匠にいふには、
「幸床、おれは五万円とつていくんだよ。お前、いいだけとつておけ」
といふことでした。けれども、いくら親方がさういつたからといつて、こちらはやつぱり職人です、何万円ももらつて行かうなどといふ気にはなれなかつたといふ逸話が残つてゐるくらゐですから、すでに維新前から一ぱしの技倆をそなへた床山であつたものと見えます。

そのために明治初年の氏姓令のとき、九代目團十郎から市川家の本姓である堀越と三升くづしの紋をあたへられて堀越姓を名乗るやうになつたといふことですが、それはいづれにしても、以後九代目がいはゆる活歴(かつれき)をもつて明治の歌舞伎に新しい生命を吹きこんだことは周知のことでありませう。その華やかな舞台の裏にあつて、影の形にそふごとくこの人が次々と編みだしていつた鬘(かつら)の新しい型や技法は今日伝へられるそれのなかに数々残つてゐて、わたくしども負ふところが少なくないのであります。

たとへば昔は鬘の毛を植ゑるのにすべて簔(みの)を用ひたものでした。それには普通の簔と化粧簔とがあり、はじめに粗く編んだ普通の簔を下毛(したけ)として、最後に生えぎはをなす部分へ化粧簔を張つて仕上げるといふ方法で、この手法は今日なほ大時代物には踏襲されてをります。しかしそれを羽二重の布地に毛を一本一本植ゑたもので生えぎはをつくるやうになつたのは明治時代になつてからのことで、今日いはゆる世話物にはみなこの手法を用ひてあるのですが、その結果、鬘が一段と写実味を加へるやうになつたわけでして、その製作技術の上に非常な進歩をうながしたのであります。

髷(まげ)といふのは、刳(く)り型・鬢(びん)・甲羅(こうら)・月代(さかやき)・腰(こし)襟足(えりあし)などの部分をまとめて加へる油付の髷のことで、これが立役の鬘(かつら)の急所であり、生命ともいふべきものです。したがつて「髷は幸床」といふのは、その仕上げにかけてはならぶ者がなかつたといふ意味ですから、今日ならさしづめこの方面の無形文化財に指定されるべき技倆の持主だつたわけでして、九代目の舞台の晴れ姿を想像するにつけ、この人のかくれた功績といふものがいろいろと考へられるわけです。

利三郎師匠は見込まれてそのあとをついだ人ですが、しかしこのかたはもと大阪の生まれで、大阪の鬘屋(かつらや)の奉公からこの道に入った人でした。それが十八歳のときに年(ねん)があけたのをしほに東京を志し、朋友の兼光さんと二人して膝栗毛の弥次喜多道中よろしく東海道を下つてきて東京に落着くことになつたのだといふことです。

それも明治二十八年、日清戦争のころ、大阪から東京まで百四五十里(ひゃくしごじゅうり)の道のりをすべて徒歩で下つてきたのですから、ずゐぶん面白いこともあつたでせうが、また難儀にも出会つたことでせう。事実その思ひ出ばなしに、二人とも途中ですつかり旅費をつかひはたし、手にした洋傘まで売りはらつて、やつとのことで東京へたどりついたとよく師匠が語つてをりましたから、おそらく野宿をしたりしたこともあつたのではないかと察しられます。

このとき道中をともにした兼光さんは後に市村座の頭取となり、名頭取といはれたかたでした。

しかし利三郎師匠はもともと鬘屋(かつらや)の出であつたところから、やはり鬘屋になることを志し、初め馬道の大勝(だいかつ)といふ鬘屋へ弟子入りをしようとしたものでした。ところが、見ず知らずの他所者がいきなり飛びこんできたところで、誰も受けてくれる道理がありません。そのために師匠も一時はずゐぶん困窮したやうですが、このときたまたま弟子にひろつてくれたのが幸藏師匠で、ここにはからずも鬘屋から床山へと転向を余儀なくされたわけでした。

けれどもこれが大いに幸いして、利三床(りさどこ)は次第にその仕事熱心と技倆とを認められて婿養子に迎へられることとなり、つひに堀越家のあとをつぐようになつたといふちょつと変つた経歴の持主です。

さういふ人だけに利三郎師匠は、先年亡くなつた市村羽左衛門さんが「夜叉王、夜叉王」と呼んでをりましたけれども、まつたくそのあだ名の通り仕事にかけては恐ろしいまでに精魂をうちこんだ名人気質の職人でした。ご存知のやうに「修善寺物語」の夜叉王といへば、わが娘が今まさに息をひきとらうといふのに、その娘をスケッチして後の絵本に遺さうと筆を擱(お)かなかつたのですもの、芝居で見てをつてもたしかに鬼気の迫るものがありますが、うちの師匠の仕事ぶりはまさにそれだと羽左衛門さんはいふわけです。

これは単に仕事好きとか熱心とかいふものではありますまい。むしろ芸道に関するかぎり常に自己責任の立場にたつて、何よりも自分自身に対してきびしい心持をもつてをつたことによるものと思はれます。

ですから一面には自分の手がけた仕事に対して非常な自信を持つてをつて、亡くなる寸前まで仕事といふものを一向に手放さうとしませんでした。昭和二十五年七十二歳で亡くなるころには、さすがに衰へが見え、健康も気づかはれてきたので、せめて請合つた仕事の一部でもわたくしに手伝はしてくれるよう再三申し出たことがありますが、それさへ師匠はついに肯(がえ)んじませんでした。返事はきまつて、おれが死んだらやつてくれの一点張りで、ずゐぶん苦痛にたへながら髷つくりに丹精してゐた姿が今もありありと目に浮んできます。まことにそれは夜叉王の姿でした。

その間に師匠が遺していつたこの道への貢献は少なくありません。それは先代の幸藏師匠にまさるとも決して劣らないものがあります。いづれその業績についてはおひおひ申述べるとして、とにかく偶然のことながら、かうした師匠について修業をつむことができるやうになつたのは、何としてもわたくしにとつて大きな倖であつたといはねばなりません。