(十五代目)市村羽左衛門丈に「夜叉王」と言われていた師匠に、十一歳で弟子入りした当初の生活について。

今とは時間の感覚が全く違うように思います。それでもどこかほのぼのとした雰囲気があります。

【総務:鴨治】

歌舞伎床山芸談(一)-④修業時代

三軒町の師匠の家は、おもてが格子づくりの間口四間に駒寄せといふ江戸の名ごりをそのままの昔風なつくりの家でした。
ここからわたくしは毎日師匠にしたがつて小屋へ通うわけですが、それには先づ朝の六時に起きて、駒寄せから店の間の格子拭きといふ外廻りの掃除をひと通りすませ、そのあとで御飯をいただくと、こんどは家の内のお磨きやら風呂洗ひ、それに二階の掃除といふ順序で日課がはじまります。

そのころの東京の主な劇場といへば、歌舞伎座、明治座、新富座、本郷座、市村座それにつひ一度もわたくしは働く機会がありませなんだが東京座といふところで、小芝居では演技座、宮戸座、柳盛座、開盛座、三崎座などいふのがありました。
このうちわたくしが歩いて通つたのは市村座ぐらゐのもので、あとはみな師匠が市電で通はしてくれましたから、その点大いに助かりましたが、それにしてもこの仕事は夜が商売のこととて、十時前にしまふやうなことはめつたになく、大きい芝居ともなれば初日の打出しが夜半十二時を過ぎるといふのが例でした。
だから、弟子入りして数年間といふもの、わたくしはただ眠いが病であつたと申してよいのではないかと思ひます。仲店などわたくしはほとんど眼をあけて歩いたことがありませんでした。

それで時をり師匠がいたはつてくれて、お前、先に帰つて湯にはいれ、などと言つてくれるのですが、すると歌舞伎座の前で市電に乗つて、両国を廻り、浅草を廻り、さらに池之端を廻つてまた歌舞伎座前へもどつてくるあの当時の循環線をぐるつとひと廻り居眠りをして、目がさめてみると歌舞伎座で、しかも芝居は打出してしまつてゐたというやうなことが一再ならずありました。
そのために、師匠から、
「よその小僧は、みんな歩いて帰るのに、手前が電車なんぞに乗るから居眠りするんだ。明日から歩け」
などとおどかされたこともあります。
でもまあ、それはその場かぎりの叱言(こごと)で、結局わたくしは市電で通うことができましたが、他ではなかなかさうはいかないやうでした。
歩くのも床山の修業の一つだといふので、江波さんのところでも上島さんのところでも、小僧はみんな浅草から歌舞伎座まで歩いて通つたものです。これもたしかに人生修行の一つではあつたにちがひありませんが、それだけ裕長な時代であつたともいへませう。

いつたい、歌舞伎が今日のやうな二部制になつたのは昭和三年市村羽左衛門さんが洋行からお帰りになつてからのことでして、それ以前はみな一日通しのものでした。
それで大きな芝居はたいがい二時か三時に幕があき、小芝居は朝の九時か十時に始まるといふわけで、それからぶつ通して打出しが十一時・十二時となるのがめづらしくなかつたのですから、つとめる方もなかなか容易なことではありませんでした。

尤(もっと)もこれはわたくしが知るやうになつてからのことでして、それ以前は更に事情が変つてをり、芝居といへばみな朝も暗いうちから木戸があいて、夕方の打出しときまつてゐたといひますから、世の中もずゐぶん変つたものだと思ひます。
その理由はおそらく照明の関係にあつたのでありませう。つまり蠟燭(ろうそく)をとぼし面燈火(さしだし)をさしかけて演つてゐたころには、夜間興行などとても考へられなかつたわけです。

その代り今日のやうに追ひかけ追ひかけ芝居があくことなく、前にも申したやうに大きい芝居といへば年に四回ぐらゐのものでしたから、ずゐぶんのんびりと仕事をすることができました。
たとへば、相撲のあたまなぞ結ふのに、あれはなかなか手数のかかるものですから、一枚に三日ぐらゐかけなければいけないなどといつて、前に癖を直しておいて油を回し、あくる日いつぺん結つてみて、それからまた次の日に直して本当に結ひあげるといふやうな手のこんだことをしたものでした。
道楽といへば道楽のやうなものですが、それだけ好きな仕事ができたわけです。

その当時、春は歌舞伎座があくのが七草過ぎときまつてをりました。それで歌舞伎座の前に暮から横浜で一ぱい打つてくるといふやうな芸当ができ、みなそれをやつたもので、これはその後長く慣例となつてつづいてゐたと思ひます。つまり小劇場の場合は、おほかた大晦日が初日で、それから正月へ引きつづきとなつてゐましたので、七草前に一週間くらゐ他で打つてくることができたわけです。

とにかく、わたくしが利三床の小僧として歌舞伎座へ通ひはじめたのは、こんな時代でした。
そして三階の床山部屋にコロコロとしてをつて、毎日することといつては、鬘下地の羽二重の油敷きのほかは、たいてい部屋の掃除か使ひ走りのやうなことで、鬘に手をふれるといふやうなことはなかなかのことでした。
床山の弟子が最初に手がけるのは先づ癖直しからときまつてをりますが、それさへ二三年さきのことであつたやうに記憶してをります。