昭和58年に内々の記念品として、弊社創業者鴨治虎尾のインタビュー等をまとめた私家本をつくりました。今でも時々お問い合わせをいただく事もあり、又若い床山達にも気軽に読めるよう、少しづつブログ内でご紹介することにいたします。

元の本は旧漢字、旧仮名遣いでしたが、読み易いよう新漢字に直しました。
旧仮名遣いは歌舞伎の台詞等と現在の日本語を繋ぐ大切な要素でもありますので、あえてそのまま残してあります。

専門的な内容と相まってあまり読み易い物ではないとは存じますが、当時の床山の雰囲気共々お伝えできましたら幸いです。

【総務:鴨治】

歌舞伎床山芸談(一)-①はしがき

わたくしがこの道にたづさわるやうになつてから、かれこれ五十年になります。
考へてみればこの五十年といふ歳月を、わたくしは何といふこともなくただ元結一筋の芸道に歩んでまいりましたが、その間には二度の大戦をさしはさんでの慌しい時勢の推移につれて芝居道にも自らいろいろと変遷がありました。
かりに舞台の設備とか照明効果とかいふような点からかへりみても、大正初期のまだ薄暗い舞台で、大きい芝居といへば幕があくのが年にせいぜい四回までときまつてゐたころの事情と思いあはせると、今は昔の感なきを得ないものがあります。
とりわけこのたびの大戦によつてもたらされた世の中の大きな変革は、わたくしどもの世界にも当然反映して、旧い制度の改廃とともに新しい組織が生まれ、歌舞伎はむしろ戦前に想像もつかなかつたほどの繁昌ぶりを見るに至りました。小屋には年中芝居がかかり、舞台は休みなく廻つてをります。

わたくしども楽屋つとめをするものは、かうした華々しい舞台のはこびにつれて、ただ出しものから出しものへと駈け足で狂言を追ひかけてゐるのが昨今のありさまですが、しかしその華やかな一面には、かねて古人の工夫になる伝統の古格や作法などの貴重なものが次第に忘れられてゆく点も少なくなく、また年とともにそれを知るひとさへだんだん居なくなるといふありさまで、まことに心惜しい限りと申さねばなりません。

もつとも、鬘(かつら)といふものはその性質上、一つこしらへれば誰のあたまにも合ふといふものではなく、ながく保存していつでも使えへるといふものでもありません。それはちやうど地(ぢ)のあたまが必要に応じて新たに結ひなほされるのと同じであります。
従つてこれもひと舞台つとめて用ずみとなつたら、さつさと崩して、あとには何のかたちも残さないのが通例ですが、そのうへに芝居には近ごろめつたに上演されない狂言があり、十年二十年と床山をつとめてをつてもまだ一度も手がけたことがない髷(まげ)などいくらもあるというありさまです。ですからこのような時勢になつてくると、ある一部のものが忘れ去られてゆくのもやむを得ないことといへば言へなくもありません。

しかし昔から「衣裳の我慢はできるが鬘の我慢はできない」などといはれるやうに、歌舞伎にとつて鬘が俳優を舞台上に生かす最も大切なものであることはどなたも御承知のごとくで、これの製作には古来俳優も床山もともに伝統をまもり古格を尊重して一本の元結、一筋の毛にもなみなみならぬ工夫をこらしてきたものでした。
古い記録によると、鬘は足利時代の猿楽に用ひられたのに始まるといふことで、これがやがて歌舞伎にとり入れられて以来、二度の禁止令にあつてをります。その一つは寛永年間、女歌舞伎の禁止によつて起つた若衆歌舞伎に対する前髪剃落しの令であり、今一つは寛文年間、改めて鬘一切の使用を厳禁したのがそれであります。
そのために一時は置手拭といふものを考案したり、あるいは野郎帽子といふものをつくりだしたりしてずゐぶん苦心をはらつたもののやうですが、これがかへつて狂言そのものの質的向上をうながしたとでも申しませうか、その後すぐれた作者の輩出とともに歌舞伎はあらゆる技芸の点で品位をたかめ、やがて法令の緩和とともに鬘の製作にも徐々に改良が加へられて今日に至つたのであります。
自髪をなでつけた上へ鬢鬘(びんがつら)をかけることから、差込髷(さしこみまげ)・附髪(つけがみ)などいふものが工夫せられ、やがてこれを全体としてまとめて、今日見るような頭の全部にはめこむ台金(だいがね)が完成されたのは延宝年間であらうといはれてをります。
してみると、それからでも鬘はすでに二百八十年からの歴史をもつてゐるわけですが、これを一段と優美なものに大成させたのは何といつても明治の時代になつてからでありませう。
それは床山の技術の点から見ても、用ひる材料の工夫の点から見ても明らかに言へることでして、その点でわたくしはつねづね明治の師匠たちの苦心のほどをしのぶとともに、その伝へるところを何らかのかたちで残しておきたいと思ふわけです。

わたくしが、ただ今お尋ねにしたがつて申述べようとするのも、まつたくその意に他なりませんが、さうかといつて、鬘を結ふのは所詮元結一筋に托した芸の道ですから、その製作の技術については誰しもこれを手に得て覚える以外、言葉や文字をもつて伝へるべくもありません。したがつてここには昔の名人師匠のあとを偲びながら、鬘のなりたちやら、それをめぐる床山の作法などを申述べて、明治・大正・昭和の三代にわたる推移のあらましをお伝へすることができればと思ふものであります。