(イントロダクション)
今回はかつらの材料となる毛の話です。人毛の他にも熊やヤクといった動物の毛や絹糸等が古くから使われています。それは人毛を節約するためではなく、舞台効果や役の性根を現すために、人毛より優れている場合があるからです。

写真はしゃぐま(=ヤク)の毛が使われている、忠臣蔵七段目 平岡平右衛門の頭(あたま)です。
袋付 唐毛の椎茸(黒の塗り込付)と呼ばれる奴の髪型で、今月南座の顔見世では中村芝翫丈が演じられています。人毛とは異なる独特な雰囲気があり、平右衛門の野性的で素朴な性根を表しているように思います。【総務:鴨治】【写真:岩田アキラ】

『忠臣蔵』七段目の平右衛門

第9回 歌舞伎床山芸談(三)-②毛の話

鬘(かつら)に用ひる材料は何々か、それはどうしてゐるのかといふお尋ねをこのごろよく承けますが、あれはもとより人毛を主として、そのほか特殊なものには熊の毛皮とかしやぐまの毛・太白(たいはく=絹糸)などを用ひてをります。

このうち人毛はすでに申述べたやうに抜け毛や斬り髪によつてきたのでして、それを髢屋(かもじや)がきれいに手入れをして鬘屋をはじめ一般の用にも供してきたわけでした。

明治から大正のなかばにかけて育つたかたなら、おそらくどこの家庭にも婦人の鏡台に髢(かもじ)の一本や二本は必ず備へてあつて、婦人が丸髷(まるまげ)などに結ふときの根髢などに無くてはならぬものとされてゐたのを御覧になつてゐるはずですから、よくごぞんじのことと思ひますが、それが時代とともにだんだんと風俗も移り変つて、この節のやうに婦人が一般に黒髪を断ち、かつて丈長(たけなが)とか手柄(てがら)とか髢・元結のたぐひを商つてゐた小間物店が巻髪のクリップやイヤリングを売る洋品店に変り、女髪結さんがパーマネント・セットの美容院に変るといふ時世となつては、もはや国内では抜け毛も斬り髪もほとんど得られないといふのが実情です。

それで昨今では主として中国とか朝鮮などの奥地にこれをもとめてゐるわけですが、幸ひあちらにはまだ髪の毛を尊んで長くした人があるものと見えて、今のところどうやらそれが毛屋の手を通じて入ってきてをるやうです。もつともこれは今に始まったことではなく、従来とも斬り髪といふのは多く彼の地のそれに負うてゐたのですけれども、右のやうな事情から近ごろでは一そうそれに期待するところが大きくなつてきたわけです。しかしその斬り髪もやはり年とともにだんだん心細くなるありさまですから、やがては消滅するときがくるものと考へねばなりますまい。

それについて最近では化学繊維になかなかすぐれたものがあります。それで、たとへばナイロンなどを人毛の代用に使つてはどうかと説く人もあります。これはわたくしどものあひだでも考へないわけはないのでして、かねてからいろいろと試しては見てをります。けれども結果はどうも思はしくなくて、今のところではただ一部に贅沢に使つてみる程度にすぎず、まだまだ人毛の代用品とするまでには至つてをりません。強度は充分にあります。しかし熱に弱いといふ関係もあつて、とても結ひあげる仕事には適当しないからです。

それで目下のところでは、下髪に本毛を使つて、その上髪(うわがみ)にさらつとナイロンをかけるとか、あるひは「鬢(びん)ばらの糸垂れ」(髷の名)といつて『保名(やすな)』の安倍保名のあたまのやうな捌きのものに用ひるにとどまつてをります。この「鬢ばらの糸垂れ」といふのはもともと太白といつて絹糸を用ひたものですから、その代用としてはかへつて効果があるといつてよろしいでせう。だいたい捌きのもので動きの多いものに人毛を用ひると毛がもつれるきらひがあるところから昔から太白を用ひてきたのですが、ナイロンはそれに適してゐるわけです。

次に熊の毛皮ですが、これは「逆熊(さかぐま)」「むしり」「葺毛(ふきげ)」などといつて、いづれも月代(さかいき)が伸びたこころで、主として敵役とか御家人などの強い役の甲羅(こうら)に用ひて独特な味をもち、鬘制作にはなくてはならぬ材料の一つとなつてをります。

たとへば「逆熊」なら、いはゆる百日鬘(ひゃくにちかつら)とか五十日鬘(ごじゅうにちかつら)のやうに思ひきつて月代ののびたのより短かいかたちで、役どころとしては『忠臣蔵』の定九郎とか『紅皿缺皿(べにざらかけざら)』の天目須之助などにそれがみえます。前者の鬘を「本毛鬢逆熊の御家人髷」といひ、後者の鬘を「袋付逆熊がつたりの水入り」とよんでをります。

「むしり」といふのは前の「逆熊」よりもさらに月代の短いもので、やはり熊の毛皮を甲羅に貼るのですが、これには旋毛(つむじ)のあるものとないものとの二種があり、前者には『色暦源氏店(いろこよみげんじだな)』の切られ与三郎に用ひる「本毛鬢むしりの銀杏(いちょう)」後者には『四千兩』熊谷宿の富藏に用ひる「本毛鬢熊のむしり」とか『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』の与右衛門に用ひる「袋付本毛鬢熊の葺毛むしりのみより風」などといふのがあります。与三郎の「むしり」に似たのに権太の役に用ひる「むしり」がありますが、あれは綯(な)ひまぜといつて本毛にカラの毛をまぜて貼つたもので熊は用ひません。

「葺毛(ふきげ)」とはちゃうど屋根を葺くやうに毛を貼るところからこの名があるのでして、それには熊の葺毛と綯ひまぜ(本毛とカラ)の葺毛との二種類があり、前者は「逆熊」のやうに皮付を貼つたのよりも毛が立たないところが見どころで、その代表的なものとしては『三人吉三』大川端のお坊吉三に用ひる「本毛鬢熊の葺毛の御家人髷」といふのがあります。『四谷怪談』の伊右衛門も同じくこの型ですが、そのほか『稲妻草紙』浪宅の名古屋山三に用ひる「袋付本毛鬢熊の葺毛の棒(ぼう)茶筅(ちゃせん)」などがあります。これに対して綯ひまぜの葺毛といふのは熊毛を用ひませんが、前者とくらべると、ずつと色気のないもので、役柄としては『河内山』質店の河内山宗俊『天一坊』犬殺しの法澤などに用ひます。

次にわたくしどものあひだで俗にカラとよんでゐるもので、ごぞんじの鏡獅子とか鬼に用ひる特殊な獣毛があります。あれがすなはち「しやぐま」(=ヤク)といふ動物の毛で、わたくしはまだその実物を動物園でも見たことがありませんが、なんでも中国の奥地に棲む非常に毛のながい獣で労役に使はれる牛の一種の尻尾といふことです。

それが戦前には皮付のまま輸入されてをりまして、毛なみは白と黒の二種があり、見かけはずゐぶんきたならしいものでしたが、それをきれいに洗滌して、単に鬘ばかりでなく刷毛などの材料にもひろく用ひられてゐたもののやうでした。わたくしどもの方では人毛についで最も用途の多いのが実はこのカラで、いはゆる綯(な)ひまぜといふ鬘や月代には人毛にまぜてみなこれを用ひてをります。

先づその代表的なのが獅子のあたまで、鏡獅子や連獅子の親には「白頭(はくとう)」といつて白を用ひ、仔獅子にはこれを染めて「赤頭(あかがしら)」とします。
そのほか鬼とか幽霊とか変化物になくてはならないのがやはりこのカラ毛で、このうち「黒頭(くろがしら)」には『船弁慶』の知盛、「赤頭」には『猩々(しょうじょう)』の猩々などがあります。

また『戻橋(もどりばし)』の鬼女とか『紅葉狩(もみじがり)』の鬼女の毛は「茶色の頭」といつて、その名称の示す通り茶がかつた色をしてをります。今日ではそれをただ白から茶に染めて用ひてをりますが、むかしはさし毛と称していろんな毛色のから抜いたりためたりしたのを混ぜてつくるといふ甚だてのこんだ仕事をしたものでした。ですからずゐぶんおもしろい味のある毛色を呈してをつたものでしたが、近ごろでは材料が思ふにまかせぬ点もあつて、もはやさういふ仕事のおもしろさはあれに見られなくなりました。

そのほか『勧進帳』の弁慶『寺子屋』松王丸『鳴神』の上人『忠臣蔵』七段目の平右衛門などに用ひられて、それぞれ独特な風情をそへるのもカラ毛です。
しかし、このカラも今ではすべて加工されたものが入つてくるばかりで、昔のやうな皮付といふのがまつたく見られなくなりました。需要の関係からみればおそらく刷毛などの工業用に供する量にくらべて、こちらはまことに微々たるものでせうからそれもやむを得ないことではありますが、とにかく一定の寸法にプツンと截断して繩巻にしたものしか手に入らないのです。

そのために毛先がないのと弾力性を持たないのとがわたくしどもの仕事にとつては大きな痛手となつてをります。鬘屋はその短かいのを補ふためにもちろんいろいろと工夫して、毛の長いのと短かいのとを混ぜ合せて「鏡獅子」のあたまをつくつたりしてをります。けれども、それではなかなか昔のやうな弾力性を持たせることができませんから、たとへば舞台でかう首を振つて見得をきつても、かつてのそれに見られたあの毛の動きによる微妙な味が出ないわけです。これはいかにも残念なことですが、どうにも致しかたのない次第です。

なほ、カラは以上のほかに女形では芸者の「潰し島田」とか「伊達傾城(だてけいせい)の兵庫(ひょうご)」(髷の名)とか、あるひは八百屋お七などの役に用ひてなかなか味のあるものです。