(イントロダクション)

今回は口上の髷(まげ)、特に市川家の鉞(まさかり)について。

本文中にもあるように、口上の頭には油付と袋付があり、油付には市川宗家の「油付研ぎ出しの鉞」と直門幹部の「油付櫛目の鉞」があります。

「研ぎ出し」と「櫛目」については弊社ブログ 2014年4月28日 かつら豆知識「研ぎ出しと櫛目」に詳しく書かれていますが、「仮名手本忠臣蔵」大星由良助の「油付細みより」という形の頭は、七段目の「一力茶屋」では研ぎ出し、四段目の「判官切腹」では櫛目を用います。

私の個人的な印象では、タキシードとビジネススーツ・・・といったニュアンスを感じていましたが、口上の場合はさらに格式や決まり事があり、もう少し複雑です。
ただ「赤い毛氈(もうせん)」にはレッドカーペットに通ずる雰囲気はあるように思います。

【総務:鴨治(和)】【写真:岩田アキラ】

第11回 歌舞伎床山芸談(三)-③口上の髷の話

歌舞伎の春は先づ吉例仕初式(きちれいしぞめしき)に幕があきます。赤い毛氈(もうせん)をしきつめた舞台一ぱいに名題の立役・立女形(たておやま)・太夫元・若太夫から名題下・相中(あいちゅう)にいたるまでずらりと居並んだのへ、あちこちから「成田屋」とか「音羽屋」とかそれぞれ贔屓(ひいき)のよび声がかかる。その舞台正面の中ほどに座を占めた座頭が先づ大向うに折目正しい一礼を送つたのち、
「高うはござりまするが不調法なる口上(こうじょう)をもつて申上げまする。久しく絶えたる仕初に旧弊のあたまをごらんにいれ……」(團十郎)
などと新年の御祝儀からはじめて、やがて頭取が三宝へのせて持参した巻(まき)を手にとり声たかだかと大名題・小名題・役人替名の御披露に及ぶ。これはあひも変らぬはこびながら、いかにも新春らしい晴れやかな気分が舞台いつぱいにみなぎつて、やはり歌舞伎ならではの情景と申せませう。役者の改名(=襲名)披露や初舞台のおひろめが行はれるのも多くこの時で、昔はこの仕初の日を俳優は暮から身を浄めて待つたといひます。

かねて歌舞伎には芸位や家柄や職分などによる伝統の格式作法がいろいろとあり、それが裏方にいたるまで久しく維持せられてきたのでありますが、この吉例仕初式のはこびもやはりその一つで、その式次第はいふに及ばず、この日の口上の衣裳にもあたまのつくりにも昔からいろいろととりきめがあり、宗家々々によつて髷(まげ)のつくりもちがふものです。

先づごぞんじの市川家には柿の裃(かみしも)に鉞(まさかり)といふのがあつて、これが口上のこしらへと定まつてをります。しかもこの鉞の髷(まげ)といふのは市川家に限られたもので、それには油付と袋付との二種があり、市川宗家にかぎつて油付の研ぎだしを用ひ、その直門の幹部は油付の櫛目の鉞、あとは袋付ときまつたものです。また、それにつれて衣裳の柿の裃にも色の濃淡があつて宗家と門弟とが自ら知れるやうになつてをり、主人側の方は色が濃くなつてをります。つまり市川家といへば團十郎ですから、今日では海老蔵さんがその宗家にあたるわけで、油付の研ぎだしをつけるのは本来このかたにかぎるといふことです。

したがつて同じ市川門下であつても團十郎の直門でないかたの弟子は袋付であつても鉞はつけられません。やはり普通の銀杏(いちょう)といふことに定まつてをります。それを楽屋銀杏とか木場銀杏とかいつてをります。

それについて、先だつて亡くなられた三升(さんしょう)さんがよくこんなことを言つてをられました。
「研ぎだしはおれだけだよ。わかつてるだらうが、ちやんとしてくれなくてはいけないよ」
 さういへばたしかに三升さんは團十郎の跡目ですからそれにちがひありませんが、その三升さんがいつぞや「矢の根」をなすつたときのことでした。先の新十郎さんがうちの師匠に向つて、
「利三床(りさどこ)、おれの後見(こうけん)は油付でやつてくれ」
 とおつしやつたことがあります。ところがこの新十郎さんは直門にはちがひないけれども幹部ではありません。したがつて宗家の油付研ぎだしの鉞はつけられないわけです。だからといつて師匠としては、あなたは幹部でないから油付はだめですとも言ひかねたことでした。そこで一案をめぐらし、研ぎだしと袋付の中間をとつて櫛目とし、いくらか髱(たぼ)のふくらみをもたせて、それで髱のでた油付の櫛目の鉞をつくつたことがありました。つまり師匠としては俳優の誂へにも応じ、さうかといつて宗家の格式をも冒すことのないやうにと仕事によつて利かしたわけでして、これが後に「髱(たぼ)の出た櫛目の鉞」といふ市川家の後見の髷の新たな型の一つとなつたものです。

そのほか口上の髷(まげ)には尾上家・澤村家・市村家・中村家などいろいろあり、おのおの好みによつて刷毛先(はけさき)とか髱(たぼ)のとりかたなどに多少の相違がありますが、それらはみな大同小異であるところから一般に楽屋銀杏とよんでをります。

なほ市川家の木場銀杏といふのは何代目かの團十郎が深川の木場にすんでゐて、意気向きにあたまを結つてゐたのにはじまるところからこの名があるといはれてをります。