「鬘(かつら)を単なる道具として見るのではなく、むしろ生きた人格につながるものとして尊重するこの道の作法精神」をもって後進を育てた利三郎師匠と、「持つて行くだけの力があるかどうかの一事につきるわけです」と思う弟子。決まり通りの形の先の「生々とした自然のふくらみであるとか色気をそへる勘どころ」は弟子が能動的に取りに行かないと伝わらないのかもしれません。【総務:鴨治】

歌舞伎床山芸談(二)-①公開された秘密

堀越へ弟子入りをしてまもなくのことでした。こんど利三床(りさどこ)へ小僧がきたといふので、あるとき仲間の人が見えて「お前、飯がすきか」といきなり問はれるままに、ええ、それはすきですと応へると「飯がすきなら今のうちに床山になるのはよしたがいい。床山ぢや飯が食へないぞ」といはれたのにはいささか面くらひましたが、またそのころ「床山は字なんぞ書けなくていい。ただ、だんごと三角が書ければいい」などともいはれてをつて、この社会ではなまなかに読み書きなどができて文字をたよりにするのを一般にきらふ傾向さへあるのがおもしろいことでした。それが昔ながらの職人気質といふのでせうか。
何のためにだんごや三角を書くかといへば、数ある役者のあたまにあはせて自分の心覚えまでに丸だの三角だのを記すことができればそれで用が足りるといふわけでして、要は手に得た技倆(ぎりょう)だけがものをいふといふこころです。

考へてみればまつたくそれにちがひありません。すべて芸といふものはそのやうなものでありませう。
とりわけ舞台のそれは俳優の所作にしろ、それに応ずる鬘(かつら)の造形にしろ、日ごろ手に得て一身に深く具(そな)へたものを、折々の風体にしたがひ、あとにもさきにもない、ただ一度をこころとして、散る花のひととき咲くおもしろさに現はすものではないかとこのごろつくづく思ふことです。
してみれば甚だ単純にきこえる上のことばも、西や東のまだわからぬ初心の時代はともかく、おたがひに永くこの道の経験をつんでだんだん仕事のむつかしさやこはさがわかつてくると、かへつて味ひが深いといふもので、しかもその奥義とする技法に至つては、それが優れたものであればあるだけ、たがひに自家の暖簾(のれん)の奥深く秘匿してなかなか他人には見せたがらないといふのが一般ですから、その修行にはとても今日とは比較にならない厳しさがあつたといつてよいのではないかと思ひます。

とにかくそんな風ですから、稽古といつても別に手本にするやうな書きものがあるわけでなし、さうかといつて手をとつて教へてもらふわけでもなく、ただ見やう見まねで手習ひに自ら折つてみた髷(まげ)をときたま師匠の眼につくところへ差出しておいて駄目を押してもらふくらゐのもので、それには先づ何よりも師匠の作品を手づから崩してみるのが一番勉強になることであり、たのしみでもありました。

といふのが、だいたいうちの師匠は先代のころとちがつて紙帳(しちょう)の中で髷(まげ)を折るといふやうなことはしませんでしたし、仕事の手もよく見せてくれました。けれども役(やく)のあたまともなればやはりこの道の不文の掟として他人にはめつたなことで手をふれさせず、まして崩させたりなど容易にしないもので、そのことのうちに実は鬘(かつら)を単なる道具として見るのではなく、むしろ生きた人格につながるものとして尊重するこの道の作法精神が厳格に維持されてゐたのでありますが、それはとにかく、こちらはそろそろ仕事に対する興味もわき、知りたいの一心ですから、かねてこれと思ふ鬘が楽日になつてあくのを待ちかまへてをつて、いかにも手伝ふといふ様子をしながら手早く髷を崩してみる。そうしてその仕掛なり手法をくはしく学びとるわけです。
前にも申述べたやうに狂言によつてはこの機会を逸すとこのつぎ何時また出会へるか知れない鬘がいくらもあるものですから、それにはただの探求心だけでなく実に真剣なものがありました。

したがつて、わたくしどもの技術といふものは単に人から教へられて会得するといふものでなく、先づ自ら苦しんで名人師匠のあとをたづね、それぞれに養ひ得た能力に応じて学びとるといふのが真実で、少し悪しざまに申せば、おたがひに先人の苦心になる秘術を盗みあつてゐるやうなものといつてもよいのではないかと思ひます。
少くとも一方の名人といはれる人の立派な作品を見て、そのたくみな技法を解くのに苦しみぬき、今一歩といふ境地に迫つてゐる者であつてはじめてその秘伝とか奥義とかいふようなものも会得できるのでして、さうでなければ「心ここに在らざれば視れども見えず」いはゆる秘伝とか奥義とかいふものもただ公開された秘密にとどまるのではないかと思はれます。

いづれにしても、かうしていくらか手に覚えができたところで余暇をみては自らあれこれと髷(まげ)を試作してみて、そのうちにいくらかましと思はれるものができると師匠に見てもらふわけですが、それには初めのうち「これ作つたから見てください」とはなかなか言へたものではありません。それで誰もゐないまに師匠が坐る長火鉢のわきなどへそつと据ゑておいたりする。すると後で師匠がそれを手にとつてみて、駄目なものだつたら黙つてパチンと弾いてしまつて、それきり何とも言つてくれないのが常でしたから、これにはずゐぶんがつかりさせられたものでした。

そんなことが三軒町の師匠の家では幾度くりかへされたことでありませうか。しかしそれがたび重なつて、やがて師匠が髷(まげ)を手にとつても直ぐには崩さなくなり「お前ふくらみがたりないよ」とか「ここに力が入つてゐない」などとこごとを言つて、何かちよつとひとことでも急所にあたるところを語つてくれるやうになつたら、そのときがいくらか物になりかけたときといふありさまでした。今日から見ればずゐぶん冷淡な仕打のやうですけれども、それが結局たいへんな修業になつたわけです。

近ごろではそのやうなことはございません。同じく師弟の間柄とはいつても事情が変つてきてをります。特に戦後は旧(ふる)い制度の改廃とともに新しい組織が生まれて、わたくしどもの楽屋つとめにも自然それが及んでをりますので、すべてが開放的となり、仕事のうへではなるべくわけへだてなくするようにおたがひに心がけ、わたくしなど普段から弟子たちに手も見せれば髷も崩させ、また制作にあたつては「ここはかういふ風にするんだぞ」といちいち手をとらんばかりに急所を教へてやるやうにつとめてをります。
けれどもそれによつて誰にでも早く生きた髷(まげ)が結へるやうになるかといふと、なかなかさうはいきません。いくら公開して教へてみたところで、もののかたちだけは一応わかるでせうが、見た目にいかにも生々とした自然のふくらみであるとか色気をそへる勘どころは言葉や手つきをもつて説くべくもなく、また教へられてわかるといふものでもありませんから、やはり紙帳の中でかくしてやつてゐるのとあまり変わらないといふのが実情です。つまり先方にこちらの持つてゐるものを持つて行くだけの力があるかどうかの一事につきるわけです。