弊社ホームページにて少しずつ更新してまいりました鴨治虎尾「歌舞伎床山芸談」も今回で(一)の最後の章になります。(とは言え全部で(十)まであるので他のトピックの合間に気長に更新する予定です。)
「教(おそ)はるより自得せよということだつたと納得がいくまでには、なほ永い忍耐を要することでした」とありますが、なかなかシビアな明治の師匠たち同士の関係性は興味深いです。

写真は本文中に出てくる「暫」の鉞(まさかり)の髷(まげ) 成田五郎 通称腹出しと、「矢の根」の五郎。
油付の鬘(かつら)はバラバラに壊して土台をかつら屋さんに返してしまっても、パーツは床山の手元に残って後進の見本になったりもします。【総務:鴨治】【写真:岩田アキラ】

歌舞伎床山芸談(一)-⑤明治の師匠たち

幸藏師匠が亡くなつたのは、わたくしが利三床へ弟子入りをする前年のことでしたから、わたくしは遂にお目にかからずしまひでしたが、そのころ同業で名のきこえた人に、江波(延治郎氏の父)といふかたと、上島(うわじま)宇之助といふかたがをられました。

江波さんはその風貌が文楽の岩永(いわなが)といふこはい顔をした首に似てゐるところから俗に岩永とあだ名されてゐた人で、やはり三階の床山でしたが、特に相撲のあたまを結ふのにすぐれた腕をもつてゐて「相撲は岩永、髷(まげ)は幸床(こうどこ)」と先代の幸藏師匠とならび称されたかたでした。

上島さんは中(ちゅう)二階の床山です。このかたはなかなかの大酒家で癇が強く、ふだんから何かと御託(ごたく)が多いために、重なつて十託(じゅったく)などといふをかしいあだ名がついてゐましたが、女形にかけては当時の第一人者で、しかも衣裳つけの名人でした。先年亡くなつた加藤仲藏といふ衣裳屋さんが六代目菊五郎さんの衣裳つけをしながら「これは十託直伝でございます」などと言つてゐたくらゐですから、よほどうまかつたのでせう。
当時は時間的にもずゐぶん余裕があつたので、床山としてはちやんとさういふことまで心得てゐて、専門の衣裳屋に教へたりすることもあつたやうですが、近ごろではもうそんな人も見当たらなくなりました。
それがいつのまにか熄(や)んでしまつたのは、単に時間的制約ばかりでなく、油だらけの手で帯をしめたりすれば衣裳が汚れるといふ関係からかもしれませんが、学ぶべき点ではあらうと思はれます。

この十託師匠の息子さんに、やはり中二階の床山で光太郎さんといふかたがをられましたが、このかたも先代に劣らぬ名人でした。わたくしはかねがねそのお仕事を拝見して、近ごろめつたに見られぬ立派な芸と感服してをりましたので、そのすぐれた技術の保存のためにも是非無形文化財に指定されたいものと願つてをりましたが、惜しいことにその機会もなく先年亡くなつてしまはれました。

しかし、この時代までの名人師匠といはれる人々に共通して言へることは、自分の芸をなかなか弟子にも直伝に教へたがらないといふことでした。特に一方の名人ともなればそれぞれ独特な技といふものがあつて、それを他人に知られないために昔は紙帳(しちょう)の中で髷を折つたりしたものだといふことです。

幸藏師匠がやはりさういふ流儀で、こちらがだんだん仕事に慾が出てきて、師匠のするところを一所懸命に見てゐると、肝腎なところへきて、「ちよつと、いも買つてきてくれ」などと言ひつけられます。それでこちらは早く帰つて仕上げを見たいばかりに、息せき切つて戻つてくると、もうちやんと髷ができあがつてゐるといふ始末だつたと、利三郎師匠がよく語つてをりました。そればかりか、ときたま直しでもあれば、途方もなく朝早くから出かけて行つて、誰もゐないうちにそつと結ひ直して、いつのまに直したのか判らぬやうにしてゐたといひますから、弟子にもほとんど手をとつておしへるといふやうなことはなかつたと見てよいやうです。

それが他人に対してのみさうだつたのかといふと、決してさうではありません。
幸藏師匠の舎弟に堀越勇吉といふかたがあつて、この人も同じく三階の床山でしたが、やはり兄弟でも仕事は別だつたと見えて、あるとき「暫」の鉞(まさかり)(髷の名)が要るんだけれども、見本を見せてもらへまいかといつて幸藏師匠のところへ行つたところ、別に教へてくれようともしなかつたさうです。それで致しかたなく見本を借りて帰つたのですが、芯がどうなつてゐるのか、見本をみただけではさつぱり解らない。さうかといつて兄師匠も教へてはくれない。そこでやむを得ず髷をこはしてしまつた。すると、ただ束ねてあると思つてゐた芯の藺(い)がらが意外にも井桁に組んで、その上に毛をかぶせて油でかためてあつた。それで、なるほどここかと思つて、その通りに自分の髷をこしらへあげ、あとでこわした髷を元通りに直して返したといふ逸話が残つてをります。たとへ血をわけた兄弟に対してもそんなですから、まして他人に仕事を見せなかつたのはむしろ当然といふべきかも知れません。

「暫」成田五郎

しかし、わたくしは後年、多少とも仕事を覚えるやうになつたとき、この逸話をきいて、幸藏師匠の名人気質もさることながら、勇床(ゆうどこ)さんもなかなかの床山であつたと深く感歎したことでした。それといふのが、あの精巧につくられた髷を、新たにこしらへるならともかく、一たん壊してまた元通りに返すなど、決して尋常の業ではないのでして、すでにそれだけで立派な師匠たることを物語つてゐるからです。

事実、うちの師匠のところには、その勇床さんがこしらへた「矢の根」の車その他二三の作品が保存されてをりましたけれども、すでに二十年から経つてゐるにかかはらず、少しの狂ひもなく立派なものでした。「矢の根」の車といふのは、五郎に用ひる七本の車鬢(くるまびん)のことで「暫」は五本ですが、いづれも油込みのとじつけで出来た甚だ手のこんだものです。

「矢の根」曽我五郎時致

利三郎師匠はこのやうな師匠について修業をつんだのですから、自らもまた名人の域に達したのでせうが、その意味するものが何であるか、まだ十四・五歳の小僧つ子のわたくしに解る道理がありません。要は教はるより自得せよといふことだつたと納得がいくまでには、なほ永い忍耐を要することでした。(つづく)